8.6。広島に原爆が投下された日。
首相の菅直人は平和記念式典に出席し、原発への依存度を引き下げ、原発に依存しない社会を目指すことを表明。その中で、「今回の事故を人類にとっての新たな教訓と受け止め、世界の人々や将来の世代に伝えていくことが、われわれの責務」と述べた。
3.11をリアルに体験したわれわれの世代が、背負う責務。
太平洋戦争や、原爆投下で生き残った人々が語り継ぐように、ありとあらゆる手段を通じて、伝えていかなければならない。
そしてこのことは、原発推進か反対かによらず、全ての人に課せられていると言える。
原子力の利用を諦めるか、徹底的に安全管理を行い利用していくのか、どちらの立場を取るにあたっても、この体験を忘れてはならない。
リメンバー 3.11。
わずか半年足らずで、一部の被災者を除き、その体験はニュースの中の出来事に成り果てているようにも思う。あの数日間に巻き起こった感情、生命や積み上げてきた生活、社会がなくなる危機感を思い出そう。あの時のメール。あの時の友人や家族との会話を思い出そう。
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3.11から2日目。ネットやTVから入る福島原発に関する情報は悲観的なものばかり。国家レベルで抑制された報道が、国家存亡の危機であることを実感させる。
暗惨たる空気。平和だった日常は巨大な暗闇に覆われ、頭の中に空襲警報が鳴り響く。
仕事や東京でのこれからの生活、未来をすべて失うかもしれないという危機感と、全てを失っても必ず生き延びるという強烈な生命力を感じる。これは我々の世代の戦争。負けてはいけない戦争なのだ。
最低限数週間の命を繋ぐだけの飲料や食料を買い込んだ。家中の換気を止め、浴槽に水を張る。電車が動かなくても自分の力で動けるようにガソリンは満タンにした。
放射性物質が東京まで到達する時間を自分なりに計算して、約24時間とした。
その日の夜、家族で話し合い、もしこうなったら自分以外の家族で、または全員で脱出するという閾値を二つ決めた。
その時が来たら、すべての事情に優先させ半日以内に脱出しなければならない。その時点でどうするかを考えたり話し合ってはならない。
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3/14。1歳の娘と妻に大阪への緊急避難を指示。前日設定した閾値の一つを超えたと判断した。
家族は昼間、車で大阪へ。自分は会社へ。仕事もありどうするか考えたが、妻の勧めもありその日の夜行バスで大阪へ脱出した。
友人にも仕事相手にも告げず、極限の状態で、自分が守るべきものは自分の家族だった。
(実家の父には電話で逃げるよう話をしたが、それぞれが、それぞれの家族を守るということになった)
家族や恋人たち、最小単位であるユニットが、自分たち自身で、生存をかけての判断と行動を求められる。メディアや国、友人すら、誰も守ってくれない。
これは戦時なんだ。関東大震災や東京大空襲のような。
そして水素爆発.....(判明するのはずっと後のことだ)
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3.19。大阪のウィークリーマンションでのつかの間の安息の日々から、地獄の東京へ戻る日がやってきた。仕事は緊急的措置として有給休暇をもらっていたが、戻る時が来たのだ。
仕事を捨て戻らないという選択肢がなかったとは言わない。その時点で理解していた原発情勢と、その後の生活とのバランスにおいて、自らの判断で戻ると決めたのだ。
マスクをして新幹線から、節電で薄暗い東京駅のホームへ降り立つ心持ちの重かったこと.....
以後約1ヶ月半、週に5日を東京で過ごし(意図せざる単身赴任だ)、休日は大阪に戻る生活を繰り返すことになる。少しでも被爆のリスクを避けたかったことと、家族に会いたい気持ちが強かった。
渚大阪の準備のため大阪での仕事が毎週のようにあったことも幸いだった。
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4.29、渚大阪終了。
急性的な事態はほぼ抑制され、これより先、数十年の長期に渡る戦いが始まる。
目に見えず、匂いもなく、一見平和な日常に、生命の危機が忍び寄る。
大阪での疎開生活にも区切りをつけ、家族全員で東京での生活に戻った。
空間線量はだいぶ下がったので、内部被爆を避けることを第一に考える。
水や食料。
そしてこの戦いはいまも続いている。
土壌からの吸収や生体濃縮が進むこれからが戦いの本番とも言える。
逃げる・守るだけでなく、失われた生活をどう取り戻すのか。
これからの未来をどうつくっていくのか。
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8.6 ヒロシマ
8.9 ナガサキ
3.11 フクシマ
第五福竜丸も入れると、日本の放射能被害は4回目だ。
66年の間に4回。
悲しみや怒り、悔しさ、無情さ、
この体験を語り継ぐ権利と義務がある。
世界に、子供に、伝えよう。友や家族と語り合おう。
リメンバー 3.11
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