2018/09/30

幸せだったNU VILLAGE 2018

自分にとって一年で一番のパーティ、NU VILLAGE × べるが - a potlatch camp 2018が無事終わった。

5年目となる今年は、べるがとの共催で有料の居住エリアと無料のパブリックエリアを行き来するグランドデザインで、天候にもぽっかりと恵まれ、過去にないほどの来場者が来てくれた。

何より今年は、村の雰囲気が素晴らしく良くて、それは村人一人ひとりが用意された楽しみを待つのではなく、自分から表現したり、商いしたり、ギフトする人が増えたからだと思う。


NUVの最大のコンテンツは、来る人自身、オトナとコドモ。そして自然。

巷のフェスにあるような豪華なヘッドライナーが並ぶわけでもなく(クオリティとセンスはむしろ上だと自負している)、巨大なステージが建つわけでもない。ディズニーランドのようなホスピタリティというわけでもない。


スタッフ、出演者、来場者。オトナとコドモの垣根もなく、村人みんなでつくる村。
そこには、ポトラッチの精神が根底に流れている。
ポトラッチを超〜平たくいえば贈りもの。見返りなしに場や相手に与えること。

参加者全員無料のポトラッチBBQ、大事なモノを贈り合う、お金で買えないポトラッチマーケットに象徴されるが、実は村のあちこちに溢れている。


5年目にしてようやく、コンセプトを表現できるようになってきたし、村人の共通理解も深まり、今年は本当に素晴らしかった!!

この場を借りて、参加頂いた方、協力頂いた方に深く感謝を申し上げます。


オトナとコドモも垣根なく

ここまでは一般的な、ご報告と御礼という感じだが、実は今回ここに至るまで、主催者としては一番苦しく、一番楽しく、一番充実していた。

ここからはごく個人的な振り返りだ。


NUVの主催メンバーが6月頃に急に抜けることになり、ほぼ1人になってしまったのだ(!!)

抜けた理由はそれぞれあるんだけど、一番はNUVに関わることの負担、他の仕事や生業に及ぶ影響が大き過ぎることだろう。主催メンバーの効率の悪さもあるだろうが、やることが多岐に渡り、費やす時間も膨大だ。

はっきり言って、ボランティアの域すら超えている。笑
もはや持ち出しの社会奉仕活動ともいえるが。。


ポカーン。それまで5ヶ月に渡って進めてきた話は一体何だったんだろう。。
そしてほぼ1人になった僕は、NUVをやりきれるんだろうか??
 

とはいえその時点で開催告知もしていたし、何人かの主要スタッフはスケジュールを抑えていた。何より、自分のこどもも含め大勢の人がNUVを心待ちにしてくれている状況を知っていた。

僕の中でやらないという選択肢はなく、たとえ1人でも今回はやり抜くんだと不思議な勇気が湧いてきた。

感傷に浸る間もなく、開催3ヶ月前から実質の制作を急ピッチで進める。


自分の中で、今年は死ぬなと。プライベートも何もすべて捧げてやりきるという覚悟を決めたら、不思議と新たな仲間が集まってきてくれ、支えてくれた。
柔軟で新たな発想や、感覚と情熱を持って。

そして自分の直観で、慣れないスタッフも多いから大変だけど、これはいい流れになると確信があった。
NUVの神様はそのやりきる気持ちを見てくださったんだと思う。

音楽影絵劇 ジョン犬に群がるコドモたち

正直な話、これまでのNUVの組織は激務の中で勤続疲労を起こし、硬直化していた。
NUVにかけられる時間やイベントとの向き合い方も異なる中で、合議制らしき体制を取っていたので、誰かが責任持って物事を決めるというより、いいアイデアや流れがあっても、レスがない、決められないのループを繰り返し、結果流れる、忘れる。。
僕の中でそのことに対するストレスはMAXに達していた。


だから、1人になるというのは、むしろどこか望んでいたのかもしれない。
自分が決めればその瞬間進められる。久々に感じるその重力のなさに歓びを覚えていた。

そのことは裏腹に、自分が落とせば誰にも拾われずにそのまま本番を迎えるということだ。


超〜緊張感で重圧。
手がけてきた渚や奄美などとは全然違う、2001年のFORESTED OVA以来の完全に自分自身の責任監修における、野外パーティ主催!!


実質的な運営や制作ってこと以上に、自分自身のセンスと世界観がなんぼのもんか、それを言い訳の一切ない状態で世に問うのだ。
25年間パーティオーガナイザーを続けてきた、僕自身の存在価値をかけて。


これがかっこわるかったり、つまらなかったら、僕自身にセンスがないってことだ。
もはや引退した方がいい。
すなわち自分という存在は価値を失い、こどもに誇れるもの、生きている意味もなくなる。

すべての感覚や世界の認識はパーティとダンスフロアに立脚している、それくらいアンバランスな男ということだ。

最終日昼のMarter with コスガツヨシ

自分の好きな人、好きなアーティスト、好きなお店。
古くは小学校の同級生から、存在を最近知ってまだ出会ってない人まで。
アンテナに引っ掛かる人は、付き合いの深さ関係なしにどんどん誘った。

結果参加することになった人たちは、相手も何らか僕のことを好きだったり気になっていたり過去の活動を知ってくれている人ばかりだったように思う。

そういう意味で、僕のオーガナイザー人生の集大成とも言える内容になった。



すべてはNUVのために。夏を捧げて頑張った。
Facebookに投稿される友人たちの楽しげな家族旅行やキャンプの写真を横目に、朝起きた瞬間から明け方に力尽きて寝るまで。平均睡眠時間4時間くらいで1日20時間はNUVのことを考えていた。
こどもたちもどこかにつれてくこともできず申し訳なかったとも思ったが、案外こどもは近所で遊ぶので満足そうだった。


正直にいうが精神エネルギーが尽きて何も手につけられない1日もあった。
そういう時は積極的に休めるわけでもなく、廃人のようにネットニュースやWikipedia、パーティと関係のない世界を見ていた。


でもFORESTED OVAの20代の頃と違うのは、そういう自分も許せたこと。
だって精一杯やって尽きてしまったんだ。人からも自分自身からも責めを追ういわれはないはずだ。
許せたら不思議と次の日には動けた。

ヒカリアソビ

考えれば考えるほど、いろいろなことが出てくる。
アイデアも思いつく。

普通に考えたら手を広げない方がいい状況だけど、直観に突き動かされるように、べるがとの共催、教育委員会の後援、無料のパブリックエリア、ポトラッチマーケットなどを盛り込んでいった。


そして自分が現場の細部まで関わっていくと全体が回らなくなることを見越したのか、各部署に、能力と情熱のあるメンバーが収まってくれて、1人だけど1人じゃない、心強い状況に近づいてきた。


夏休みも終わり9月に入った頃には、今回は最高のものになるという確信と、過去のイベントでは味わったことのない感覚を覚えていた。


涙がじんわりでるような、胸が熱くなるような、多幸感。
目を瞑って、身も心も投げ出せるような、穏やかで安心できる気持ち。
みんなよくなろう、よく生きようと思っている、世界や生命に対する信頼感。

メンバーはそれぞれの技能を活かしてよくやってくれていた。本当にありがたいし、立ち向かう勇気をもらった。

甲斐駒ケ岳神社
開催1週間前に最後の打合せでべるがを訪れ、甲斐駒ケ岳神社に参拝。
NUVの神様(勝手に神社の裏山にあたる甲斐駒ケ岳だと思っている)にここまで辿り着いた御礼と祈願。

ここまでやりきったから、後は自分もスタッフも楽しめるように過ごそうと決めた。



パーティ本番のことは冒頭に触れたし、自分でことさらに語るのも野暮ってもんだ。
それぞれに感じたことを、話したり書いたりしてくれたらいい。
FacebookInstagramで #nuvillage でいろいろ見れると思います)

一つ明かすと、2日目午後にJUZU a.k.a. MOOCHYがかけてくれた"Ain't no stoppin' us now"と、夕方にDJ KENSEIがかけてくれた"越中おわら節 feat, HIDENKA"の"去年より強くなった"は涙が止まらなかった。
やはりOVAのレジデントだった2人は、僕にとって特別なDJだ。


各部署に任せられたので、いろいろな人とコミュニケーションを取れたし、滝に打たれたり、テントサウナに籠もったりする余裕もあった。
ほんとそこは感謝!

息子と

設営撤収含め6泊7日の旅から戻り、アスファルトとコンクリートに囲まれた東京で想う。

今回は良かった。現時点での最高だった。
自分のやっているNUVについて、自信を持って言えるのは初めてだ。
自信を持ってオススメする。

自分が手がけたものに、最高だと自信を持って言える喜び。


ただ、自分のつくったものとも思っていない。
たしかに尋常じゃない熱量と作業量は投下した。
言い出しっぺだから、いろいろな人を巻き込んだり、きっかけをつくったりした。


そこから先は、村人たちが広げてくれた。
スタッフや出演者、来場者たち。
想像を超えて、さらにその先へと人が人を誘い、波紋は広がる。


キム・チョンへ R.I.P.
僕自身は、何もできない。
運営の超プロでもないし、設営やステージ周りの技術も中途半端。
料理も家庭料理の範疇を超えないし、キャンプのエキスパートでもない。
お披露目できる特技があるわけでもない。


でも僕の周りにはすごい人たちがいる。
最高にセンスがよくて、最高に気持のいいやつらが。
僕は幸せだ。
そんな人たちが参加や協力してくれるんだから。


終わってすぐに、また次のことを考えている。
こんなことは初めてだ。


早くみんなに会いたい。みんなと話したい。話を聞きたい。
早く今年の後処理を済ませて、来年のことを進めたい。

また次は、大胆にがらっとやり方を変えるつもりだ。
コンテンツの所ではなく、もっと根本のところを。


僕の当面の目標は、
垣根なく村人みんなでつくる村が幸せであること。
関わる人が生活や家族を犠牲にしないで実現できること。

村の中が幸せになるなら、空間や時間を広げて日常でも幸せになれるはずだ。
すなわち世界平和で人生平和。
これは17歳でオーガナイザーを始めた頃から変わらない目標だ。

そのためにまだまだやれることはあるはずで、取り掛かるのが楽しみだ。

実現にはもっといろいろな技能と情熱を持った人が必要だ。
我こそはという人は手をあげて欲しいし、その出会いを楽しみにしている。

また会いましょう




2018/09/02

家族記念日

2018年8月31日。

父の79回目の誕生日であり、母が亡くなった日から13年。
いろいろ一区切りだなぁと思う。

夏の記憶はいつもどこかさみしげで、僕はこの時期の空気感が嫌いじゃない。
甲子園、広島・長崎への原爆投下、終戦の日、日航機墜落事故.....


この13年間で、人生が大きく動いた。
女の子との同棲を繰り返し、フーテンだった僕が結婚して、珠のようなこどもを授かった!
会社勤めなんて初めてだったけど、5年間頑張って結果も残した!

いまは子育てに主体的に関わるようになり、オトナとコドモのためのイベントを年間3本もやって、学校の学童クラブの運営にも積極的に関わっている。




 
始まりは13年前。
突然もたらされた母の死。

自分の認識する世界そのものが、音を立てて壊れた。
すべての色は失われ、モノクロームに。


今でも思い出せば息が止まりそうになる、携帯電話への異常な着信数。
父と最初に会話を交わした時のセリフ一言一句。
当時住んでいた六本木の都営大江戸線ホーム。
国立駅からのタクシー。
ずっと、涙が止まらなかった。。


実家の居間で対面する、布団に横たわる母の亡骸。
支えてくれた親族たち。

母が亡くなって24時間後、自分の身に起きた不思議な体験。
とても熱く、安心できるエネルギーが自分の中に入ってきた。

その晩に結婚することを決めた。
巨大な喪失に対抗するにはそれ以外になかった。
ひとり失った悲しみは、絶対に2人増やして癒やすんだと心に誓った。


葬儀の日まで時間があったから、ずっと亡骸に向かって話しかけてた。
高校生くらいからほとんど家に寄り付かずだった自分と母親の空白を埋めるかのように。
穏やかで幸せそうな遺影が救いで、そこには自分の知らない母の晩年の顔があった。


母のことを大事に思ってくれる人たちが全員集合の、母一世一代の晴れやかな旅立ちのセレモニー。
最後のお別れの時、ただただありがとうとしか言えなかった。

火葬の後の骨上げの時、衝動的に母の骨片を食べた。
自分の中でいつまでも生き続けて欲しかったから。

実家に骨と共に戻って、残された肉親3人なんだなぁと思った。
そして1周忌、2周忌と、忌を重ねるごとに母がいない人生が徐々に馴染んでいった。



富ヶ谷ー三軒茶屋と引っ越すうちに、ようやく念願の子供を授かる。
はかなげで、小さくて、どこかすべてを見通してるかのような愛しい命だった。
父になった!

心を入れ替えて真面目にと思ったわけではないが、30半ばで突然勉強に打ち込む。
宅建、FP、簿記....新しい知識に触れるのは、ただただ面白かった。


そして不動産ベンチャーへの就職では、新たな仲間と出会う。
新しいビジネスの世界。
感覚や向き合い方、精神の力、すべてが数字となって目に見える世界。

子育ては補助的だったけど、仕事も必死に頑張った。
1点突破で頑張った!




子供はもう一人授かり、人生の目標も達成!(-1+2=+1!!)
事業は軌道に乗り、M&Aでいつしか大企業のグループに。
新会社の立上げで文化や仕組みづくりに関与していくのは楽しかったし、仕事に打ち込んでいた。


でもその反面、家族は歪を抱えていた。
仕事や付き合いで遅くまで帰らない父。土日にいない父。
一緒にいる時間が少ないためか、懐かなかった下の息子。
もはや臨界点を超えていた。


不動産の仕事を辞めたのは2つ理由がある。
1つは家族のこと。
2つ目は本当に10年後もこの仕事を続けているんだろうか?この仕事は自分でない誰かでもいいのではないか?と思ったこと。



2015年10月から、生活ががらっと変わった。
通勤がなく、家事や子育てを中心とした生活。

うっすらと続けていたイベントの世界に、徐々に引き戻されることになり、やはりこの場に自分の役割があるんだと実感した。



そこから先は、自分にとっての近代史で、まだまだ振り返るには生々しすぎる。
家族のこと、自分の生涯の表現であるイベントのこと。
自分なりに一所懸命やってきたつもりだ。


ひさしぶりに旅行もいった。
インド、韓国。
特にインドでの穏やかで喜びに満たされた日々は、これからの人生に大きな影響を与えると思う。


会社を辞めて家族と濃密に向き合って過ごしたこの3年間は、人生でも大きな3年間だったと思う。
口では言えないほどの苦労もあったし、しみじみとした喜びもあった。
子供の寝顔を眺めているのは、この上ない幸せだった。


そして下の子の小学校入学と共に、子供たちも徐々に親の庇護のもとを離れ、父は父なりに、自分自身の人生を歩み始めるような感覚を覚えている。



母の死から始まった13年間が終わり、新たなステージが始まる。
次の13年は、何をして、どうやって生きているでしょう?

13年後、僕は56歳(58歳で亡くなった母の年齢に近づくということだ)
娘22歳。息子19歳。
いつまでも君たちのことを見守っていたいし、出来る限りサポートするつもりだ。
長生きもするつもり。




人生は貴重だし、一日一日を喜び、慈しみながら生きていければと思う。
怒ったり、嘆いたりする時間はもったいない。


自分の人生をどう創造、デザインしていくのか。
人生の夏から秋にかけて。

今まで培ってきた愛と勇気、知恵と経験、感覚を総動員で、今際の際にいい人生だったなぁと思えるように生きたい。




2018/03/12

3.11 14:46 その時あなたは

3.11から7年。
子供たちを連れて訪れた近隣の小学校のお祭りにて、2:46祈りを捧げました。
なーんもない平和な日常のありがたさと、その日常が突如引き裂かれた人々に想いを馳せて。


そして帰宅後〜明日の明朝まで、我が家では電気をストップした生活を始めました。
被災者の心持ちを体験する中でこどもたちにも不便さや暗闇を感じてもらいたかったのと、自宅の防災体制のチェックも兼ねて。

すでに陽も傾きかかってる夕暮れ前。それは明かりの確保から始まった。


そこで気づいたことを10個、箇条書きにして残しておこうと思う。


1.明かりがない! 電池がない! 
 
明るいLEDのヘッドライトやランタンなどどこへ行ったのか?
暗い白熱球ヘッドライトに、一部LEDライトで過ごすことに。。
一軍扱いの照明ほど、何かの折に持出ていて所定の場所で見つからず。
その他、電池入れっぱなしで液漏れしていて接触不良、残量ある電池とないものが入り混じって焦る、、など。
うちはキャンプ道具が揃ってるから〜なんて余裕かましてるアナタ!要確認ですよ〜


2.ろうそくがない!

残量に限りある電池よりもろうそく!と思ったが、これもどこいったのか?大掃除の時に捨てたのかな?
かろうじてクリスマス用装飾の中からデコキャンドルを見つけ出した。
でもこのねじりろうそく、一晩持つかな〜?



3.カセットコンロ万歳!

非常時気分を楽しもう!ということで、こどもリクエストで豚肉とたらこ、2種類のパスタをつくることに。暗闇の中の調理も気分が盛り上がる!
でもこれ、断水しなければだよな〜
ボンベは余裕持ってストックしとこ


4.子供の不安定

暗闇の中ミニカーレースを繰り広げたり、大はしゃぎだった姉弟。
途中から急に怖くなってきたようで、暗闇に対してしきりに怖がり、どこ行くにも付いてくる始末。ちょっとしたことで泣き喚いたり落ち着いたり感情の起伏が激しくなる。
子のテンションに引きづられると親も焦りやイライラが募るし、意外に重要なポイントと感じた。
娘が言ってた「家族全員が揃うと不安が半分になる」は実感こもった言葉だった(この日は途中から妻所用で不在)


5.充電関係

携帯に限らず、巨大なモバイルバッテリー替わりになるPCも日頃から満充電を心がけたい。テザリングに必須のUSBコードがバッグに入ってなくて焦る。
暗い中、あれ携帯どこ置いたっけ?も頻発。鳴らしてみて〜も使えないので、肌身離さず持っておこう。


6.ラジオ!この世に音楽があること

ラジオから流れる放送は、孤独な時間を他にも生きて共有している人がいるんだと勇気づけられた。これがなかったら子供たちはパニックだったかも。
そして音楽がいかに人を奮い立たせるものか。
どんな苦境にあっても感情が沸き立ち、思いを馳せ、意識を飛ばすことができる最も頼りになるメデイアだと思った。音楽ありがとう!!
でも電池式ラジオ、単2が6本だよ、、、予備に手回し式もオススメ!



7.水のこと

首都直下地震が起きた場合、断水する可能性は高い。
今回のようにたっぷりの水でパスタを茹でてとか、お風呂だけは入ってというのはできない(花粉の季節だったので今回は特別に)。トイレも流せない。
我が家ではエコキュートのタンクから直接お湯を取り出す方法があるんだけど、そのやり方の再確認をしとこうと思った。家族内でも共有しておかなきゃ。
(停電中でも断水していなければ蛇口からお湯が出た。参考

  
8.温度

日頃はエアコンのおかげで20度超をキープしている我が家も、2時過ぎには17度(外気温4度)
体感温度もかなり違うし、これが真冬だったら、、、


9.怪我しない 病気にならない

大災害時、軽傷者の手当は後回しなので、自分の身を自分で守る大事さを子供たちにも伝えたい。地震が起きたらおれ裸足で超スピードで逃げるよとはやる息子に、急がば回れ。家の中も土足でいい(草履は勧めない)という話しをした。
 
 
10.モノやアタマの整理整頓 〜いざという時に

残念ながら家から別の場所に退避することもあると思う。
その時どこに行くのか?家族がバラバラだった場合にどう伝えるのか?(小学生になるとその可能性も高い)ひとりでどう生き延びるのか?どう助けを求めるのか?
持ち出すものはなにか?(僕の場合は家族の思い出写真が詰まったHDDと通帳類くらい)
自分だけではく、家族で共有しておく必要性を改めて感じた。




夕暮れから寝付くまで、子供たちにとってはわずか5時間ほどの体験だったけど、親子とも得るものは多かったと思う。

ろうそくとLEDライトに照らされてやった学校の宿題。親子でそれぞれ詩をつくって発表し合った。
日頃ならそれぞれのことをやっている時間、限りある灯りに身と心を寄せて過ごす、豊潤な時間。

備えていても、不慮のことは起こりうる。
日々の何気ない日常を、その時しかない特別な時間と味わい過ごすことが、一番大事だと思った。

たまたま回したラジオからは七尾旅人。
音楽、ありがとう!!!

2:30 ブレーカーを上げろうそくを消して、明日の炊飯器をセットして本実験は終了〜


2018/02/14

子育てから学ぶ見守り

子育てに関わっていると、今までオトナとして確立していた気になっていた価値観を覆されることがままある。

一般的に、社会や仕事場で有用とされる人間の特質として、気づいたことに対してさっと手を差し伸べたり動いたり、口を挟んだり、そんな機敏さ利発さがあると思う。
そんな人物は仕事仲間やクライアントから頼りにされ、世間一般での評価も高いのではないだろうか?自分は有用な人材という自尊心も満たされているように思う。


では、子供に対してこれをやるとどうなるか?
・求めているものを察してやってあげる。
・先回りして障害を取り除いてあげる。
・子供が探り探り喋ろうとすることをオトナの立派な言葉で言語化する。
・子供にやらせずオトナの精度がある作業を見せつける。
・子供同士で解決策を模索している時にオトナの尺度で裁く(〜順番にやりなさい)
・自分自身の経験に基づく思い込みで子供の可能性を規定する(〜こういうものだから)
など。

子供が自分で失敗にまみれながらも何かをできたという達成を得られる機会を奪ってしまい、自信が育まれない。
何でもやってもらえるという居心地の良さの中、自立心のない依存的な傾向を持つ子供に育ててしまうのだ。

どうしても第一子は親も子育て初心者なので、よかれと思って上記のようなことをしてしまいがち。親も気づいて成長していけばいいんだろうけど、そうでないと忙しい苦しい子育てが続く。
子供が親に依存している反面、親は「お世話をしている」という思いで子供に依存しているんだと思う。


「手を出したくなる、口を出したくなる時はぐっとこらえて、見守る」

そんな大事なことを、息子が通っている大きな木保育園や、保育園やプレーパーク周りの子育てセンスのある父母たちから学ばせてもらえたのは、自分にとって大きかったと思う。

きっとあなたの周りにも、この家族は楽に子供と向き合ってるな〜とか、子供と楽しそうにやってるな〜とか、子供がいきいきとしていい感じだな〜って家庭があると思う。
そんな家庭のやり方を、教えてもらったり、見て真似したり。その家に親も一緒に遊びにいくと生活が見えるのでオススメだ。

育児仲間に誘われて参加したアドラー心理学の育児パッセージもとても有効だった。子育ての心理面での目標である、1)私は能力がある2)人々は私の仲間だ と子供が思えるようにいかに働きかけるかを主体的に学べる。


そして実は、オトナ同士の関係においても、見守ることは大事なんじゃないかと思っている。
仕事において個人の有能さを発揮するのみならず、人を育てられる領域とはそういうものなんだろう。
夫婦や友人関係においても、目先の解決や快適を求める余り、成長と気づきの機会を奪ってはいないかと、最近は自問している。

そんなことを考えさせてくれる子供たちには感謝しているし、子供に何を学んだか?毎日自分に問い掛けてもいいかもしれない。




2017/12/03

子育て世代のホームオーディオ【DENON DL-103導入編】

ホームオーデイオ、子育て世代のオーディオファイルにとって、子供の好奇心から来るいたずらとどう両立させるかは悩みのタネである。

かくいう自分も子供の頃、両親の持っていたステレオシステムのレコードを、理由は分からないがすべて台無しに聴けなくした記憶があり、その数十年後、自分の息子に●万円の針を折られることになるのも因果のうち、可愛いもんである。

そんなこんなで、子供が産まれてこの方、音量的な制約もあり、自宅のオーディオ環境については諦めと妥協の交じる中、新導体の電源タップやらオーディオボードやら、真空管フォノイコの管球など、差し支えない範囲でグレードアップを図ってきたが、音の入口であるカートリッジのクオリティはいかんともしがたく、本当はこういう音なはずと勝手に脳内補完しながら聴いてきた。


子供たちも大きくなり、ある程度分別を身につけ、レコードの扱いもだいぶましになってきた頃合いを見測り、ひさしぶりにアナログの針を新調(交換)した。

放送局で長く使われ定評のあるDENONのDL-103。数年前に折られた細ーいカンチレバーのMC針だ。


これだよ!これ。
骨太の中低域に支えられた、正確で美しいサウンド。
音の密度感があって、高音も濁りや余分のないタイトな響き。
音楽を聴く楽しみが帰ってきた。

というわけで、今まで気分で使い分けてきたNight Club Eと680HPは、パーティ使用限定に逆戻り。

参考までに、少ないながらこれまでの針遍歴を記しておく。

SHURE/M44G
誰もが一度は使用する定番MM針で、一番最初に買った針。当時使用していたONKYO製の3WAYスピーカーとの相性的にハイがきつく、特にサ行のきつさに悩まされることに。低域の制動力に欠け、音も平板だったと思う。



Ortofon/Night Club E
当時ハウス系の大箱で必ずといっていいほどインストールされていた憧れのカートリッジ。シェル一体型の美しいシルエットときちんと分解された中高域の美しさに感動した記憶があるが、今比べると腰高で中高域のきめ細やかさもそこまでという印象。


Stanton/680HP
当時YELLOWの標準だった針でNightclubより重心が低い音。本当は楕円針の680Eの方が買いたかったが、2個セットで安かったので丸針のHPを購入。今でも自分のパーティの時は使用頻度が高く、野外含めタフな環境でも安定感のある鳴り。



◯使用環境
Speaker:YAMAHA/NS-1000M(30年を超えそろそろOHが必要な感じ)
Amp:小松音響研究所/真空管アンプ
Phono EQ:TRIODE/TRV-EQ4SE(球をJJ 803S GOLDへ交換)
Turntable:TECHNICS/SL-1200MK3
CD Player:DENON/DCD-1650AL


ようやく復活したオーディオ熱。ターンテーブルの下のボード、コンセントの交換、SPケーブルの交換など、これから気長に向き合っていこうと思う。